この人がいなかったら、もっと自分の思い通りに行くのに。
この人がいなかったら、私の心はもっと幸せになれるのに。
この人がいなかったら、私の心はこんなにも乱されないのに。
この人がいなかったら、もっとうまく生きられるはずなのに。
この人のせいで私の人生に邪魔が入る。
そんな人が私の人生にはいました。
その一つとして、どれだけ自分と向き合ったり、行動したりしても、その人の何かしらの情報が見えたり聞こえたりすると、とてつもなく怒りと悔しさと憎しみがわいて、苦しくなりました。
”この人は時がたっても私の心を乱してくる。”
そう感じました。
その人は私にとって、とてつもなく理不尽で、でもなんだか、私が全て悪いように終わらされた感じがして、私に残ったモヤモヤはただ取り残され、その人は何もなかったかのように、幸せそうに生きる。
それが私にとって、胸にナイフでめった刺しにされたような、そんな痛みを感じるのでした。
私がこうやって悔しさを感じ、理不尽さを感じて怒っていることでさえ、笑っているように感じ、それでまた殺意がわくのでした。
この痛みは懐かしく、いつかの私の傷の再体験でした。
この思いに襲われた時、激しい怒りと共に、この思いさえなければ。この人さえいなければ。と思うことがたくさんありました。
過去のもも芋のお話です。
邪魔者という愛や光。
お話した内容は、内容は同じとは限らなくても、誰にでもこういったことがあるのではないでしょうか。
一見こういう相手は、自分の人生の邪魔者と感じたり、悔しくて頭から離れない憎い人、と感じたりする。
でも、私達の意識に上がらないような深い無意識、魂レベルの世界では、邪魔者という存在により、自分自身が光への道に行けるようになることがある。
この存在があるからこそ、変わりたい、私も幸せになりたい、となり、学び出したり、自分と向き合うきっかけとなっていく。
魂レベルでは、屈辱的な嫌な思いを与えることで、嫌われ役・憎まれ役として、相手に前進を促したり、
魂レベルでは、こっちばかり見ていないで、早くそっちに行きなさい(幸せの方向、本当の自分の方向に進みなさい)と言ってくれていたりする。
当然これらは、私達の意識には上がってこない。
相手ももちろんそんなつもりはない、と言うだろうし、頭では理解できないこと。
でもこういうことも、起きている。
そして私達は、幸せを選択する時、フィールドが上がる時など、今までと違う、今までよりも幸せであろう世界にいく時に、頭では求めていたはずなのに、とてつもない恐怖に襲われることがある。
幸せになりたいのに、あまりにも怖すぎて、現状維持を選択していたい自分が登場する。
そんな時に、邪魔者と感じる誰かとの出来事を思い出し、そちらへの怒りや憎しみに滞ろうとする。
高い魂レベルでは、あなたへの前進を無条件の愛で応援していても、
うまくいえないけど、こっちの次元では、自分がそんな想念に襲われた時に、引きずりおろそうとする無意識の想念が飛ばされることがある。
結局たどり着く先は、愛、なのだけど、その前に、このひっぱりを超えないといけない。
それを超えて、本当の自分を選択していかないといけない。
こういうことも、起きている。
これが魂の学び合い、なのだと思う。
私も最初はこんなこと信じられなかったし、受け入れられなかったし、”それどころじゃなかった。”
でも、自分と向き合い続けた先に、これらの意味が自然と降りてくる感じというか、腑に落ちる感覚があった。
現実を生きていると、こんな話も信じられないくらい、そんなこと言ってられないくらい、この人ありえない、本当に腹が立つ、という時も当然ある。
けれど、それがあるからこそ、あなたがその道を歩もうとするのではないだろうか。
そんなこと、中々思えない気持ちもよく分かるのだけどね。
なんとなく読んでいただければ、それでOKなのです。
許せなくて、心の底から殺意で、お前なんて大嫌いという自分がいても良いし、でも、そういうお話もあったり、魂レベルではそういうことも起きているかもしれない、を知っている自分もいたりして、両方存在させておけば、いつかまた光となるのだと思います。